こんにちは^^
春のセンバツ出場校から、名物監督をピックアップしていきますよ!
今回は、昨年秋の近畿大会ベスト4の履正社高校野球部を率いる、岡田龍生監督です。
嫁や子供などのプライベートや、経歴、野球指導法について、迫ります~。
どうぞお楽しみに~!
もくじ
岡田龍生監督(履正社)の経歴やプロフィール!
大阪桐蔭を倒して、秋の大阪王者となった履正社高野球部。
春のセンバツでは、悲願の甲子園優勝を目指して、一致団結していることでしょう!
今では大阪2強といわれるようになった履正社高ですが、そうなったのも、岡田監督のチカラがおおきいのは、良く知られていますよね。
ということで、岡田監督の人物像について、調べていきましょう。
プロフィールと経歴を調べてみました。

出典:https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/201742
名前:岡田龍生
読み:おかだ たつお
生年月日:1961年5月18日
年齢:57歳
出身地:大阪府
出身高校:東洋大姫路高校
出身大学:日本体育大学
岡田監督は中学時代に、野球部とバレー部のかけもちをしていたそうです。
というのも、岡田監督が通っていた中学では、野球部の練習が週に3日しかなく、担任のすすめで、週3日は野球部、残りの週4日はバレー部とかけもちをしていました。
これは、当時、岡田監督だけに認められた特別待遇だったそうですよ。
のちに、岡田監督は、「週の半分以上も放課後に放っといたら遊びに夢中になると思ったんでしょう」と笑って話していますが、それだけ運動神経が良かったということの証明ですよね!
この岡田少年、めきめきと能力を発揮していきます。
が!・・・バレーの能力です!!!
中学3年時には、キャプテンまで務めます。
もちろん、バレーにのめりこんでますから、高校へ行ってもバレーをするつもりだったようです。
ところが、「お前の身長じゃ、高校ではピンチサーバーか、前衛になったら交代させられる選手がせいぜいや」と担任に言われ、「なら、野球や!!」とあっさり方向転換を決めるのです!
で、ここからの岡田少年、かなり戦略家なんですよ。
まず、進学先として希望したのが、関東の強豪校・東海大相模。
志望理由は「とにかく甲子園が近いと思った」ということ。
そこで、岡田少年、東海大相模高の野球部監督に手紙を書きます。
当時の東海大相模高の監督といえば、原貢監督。
ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、巨人軍・原辰徳監督のお父さんです。
果たして、大阪の一少年の手紙を、原監督が読んだかどうかは定かではありませんが、残念なことに、原監督は、原辰徳選手の進学とともに、東海大学の監督に就任することとなってしまいました。
ここで、次に目を向けたのは、地元関西の高校。
岡田少年が、志望校を決める条件は、「甲子園に近いこと」
当時の大阪は、私学7強といわれ、どこが甲子園に出てもおかしくないような、実力が拮抗した状態でした。
そこで、兵庫県の強豪校「東洋大姫路」に目をつけます。
「僕が東洋大姫路の15期生になるんですけど、入学前の14年で7回も甲子園に行っていた。なら、3年の間に1回は行けるやろうと思ったんです。ホントに安易な考えで、高校野球をなめていました(笑)」
出典:https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2016/12/26/___split_22/index_3.php
一般入試で、合格した岡田少年。
無事に、東洋大姫路に入学します。
ただ、当時の東洋大姫路には、寮がなく、県外生も皆無。
そんな学校に、下宿までして、大阪から乗り込んできた岡田選手ですから、部員たちの間では、当然噂になります。
ところが、その選手が、「バレー部出身!!」
・・・なんでやねん!!(笑)
当時の部員たちも、拍子抜けしたようですよ(笑)
バレー部出身という異色の経歴を持つ、期待の新人「岡田龍生」
東洋大姫路の厳しい練習に耐え、2年秋からは、キャプテンに任命。
最も「東洋大姫路」っぽい選手として活躍していきます。
高校3年春には、サードで甲子園出場し、ベスト4入りしています。
「甲子園はホント楽しかった。それまで『野球って、こんな面白くないものなんか』って毎日思っていたのに、あの10日足らずで『野球ってこんなに楽しかったんや』ってなりましたから。それがやっぱり甲子園の魅力で、厳しい練習をやったおかげで気づくことができました」
出典:https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2016/12/26/___split_22/index_3.php
この時の想いが、のちの岡田監督を作ったといっても、いいんじゃないでしょうか?
高校卒業後、日本体育大学へ進学し、教員免許を取得。
社会人として、鷺宮製作所で現役を引退。
その後、大阪・桜ノ宮高校で、指導者としての人生をスタートさせることになり、
1986年、履正社高校で監督人生が、始まりました。
当初の履正社高の野球部は、同好会レベル。
ここから、岡田監督の徹底した戦略が始まっていくんですね!
その、指導法については、次でご紹介します~。
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岡田龍生監督の野球指導法は?
監督に就任したころの、岡田監督は、スパルタ方式でした。
そのスパルタ方式は、「行き過ぎた指導」といわれ、2002年に謹慎処分を受けてしまいます。
おそらく、岡田監督がまだ学生だったころは、スパルタ式なんていうのは、当たり前のことだったと思います。
アラフィフの私の学生時代も、そうでしたからね。
その当たり前を疑うことすらありませんでしたよ。
謹慎処分を受けた、岡田監督。
「これは違う方法を考えなあかん」と思いなおします。
そこから生まれた、新しい方針は「選手たちがグラウンド内でもグラウンド外でも自分で考えて動けるように!」ということ。
今までのスパルタ方式とは、180°方向転換です。
履正社は、寮がなく、全員が自宅もしくは下宿先から、通学しています。
専用グラウンドはありますが、学校よりバスで40分のところ、と離れているため、いかに効率よく時間を使うか、ということが練習では肝になります。
そうなってくると、監督や指導陣の言うことだけを聞いている練習では、どうしても無理が出てきますよね。
選手ひとりひとりが、どうやれば効率よく練習できるか、考えることを求められているんです。
普段の練習からも、選手ひとりひとりが考える場面をつくりだすような、練習内容になっているんですって。
履正社は一言で言うと「大人の練習」をしている印象があります。岡田監督の先を見据えた手法も選手を成長させているのかなと思います。
【履正社】毎日行う実践練習「決まった練習ばかりでは試合で対応できない」 | Timely! WEB https://t.co/lDqKGXqhke
— 沢井史 (@turipfete) December 3, 2018
練習では、状況判断や予測など、考えるチカラをつけることを重要と位置づけている岡田監督。
高校野球だけでなく、プロに入っても、このチカラは必要ですよね。
もちろん、野球だけでなく、社会に出ても、考えるチカラのある人は、伸びる!
そう思いますよね!
履正社野球部員たちは、高校時代の大事な時期に、野球だけでなく、人生を生きる力を育んでいる、そんな気がします!
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岡田龍生監督の嫁や子供もチェック!
野球人として、スバラシイ実績をあげている岡田監督。
そんな監督を支えるご家族について、調べてみました!
残念ながら、奥さんや子供さんについての情報を見つけることができませんでした。
プライベートを大事にされているんでしょうね!
想像ですが、、、怖いお父さんではないかと。。。(笑)
怖いお父さんと、優しいお母さん、可愛い娘たち。。。みたいな家族像が見えてきます、わたしの想像ですが(笑)
岡田監督の奥さん、子供さんについての情報はゲットできませんでしたが、
実のお母さんについての情報を見つけました。
お母さんの静子さんは、元プロ野球選手!ということです。
1950年から約2年間、「女子プロ野球」選手としてプレーしていたそうです。
所属チームなどはわかりませんが、東京ドーム内の野球殿堂博物館には、当時の写真があり、その中にお母さんの映っている写真が残されているようです。
興味のある方は、ぜひ行ってみてください。

出典:https://labola.jp/blog/user/96616/6628723
60年前の、大阪ダイヤモンドチームという女子野球の写真です。
もしかすると、この中に、お母さんがいらっしゃるのかもしれませんね~!
以前、履正社高校には、岡田龍生投手という選手が在籍していたことがあるそうです。
岡田監督と同姓同名!!息子では?!!
と噂になったりもしたそうですが、子供に同じ名前を付けるのは、ややこしくて避けますよね。
やはり、他人でした(笑)
ちなみに、読み方は、「おかだりゅうい」と読むそうです。
今回は、2019春のセンバツで、初の甲子園優勝を目指す履正社高校野球部の、名将・岡田龍生監督について、調査してみました!
「岡田龍生監督(履正社)の嫁や子供は?経歴と野球指導法も調査!」というテーマで掘り下げましたが、いかがでしたか?
大阪出身のわたしにとっては、やはり、大阪代表には注目してしまいます。
監督の目指す「考える野球」で、甲子園に大旋風を巻き起こしてもらいたいですね!
みんなで応援しましょう!
最後までお読みいただきありがとうございました。